教育は知識を与えることじゃない
なかなか難しいお題が出てきちゃいました。僕がこんな難しいお題を考え出せるわけもなく、受け売りですわ。
一つ前のエントリー「先生業」で触れたことの追加なんだけれども、先生は自分の教え子に超えられることをうれしいと思うもう一つの理由が「教育は知識を与えることじゃない」からだそうだ。教育は知識を与えることではなくて、学力を養うものだということが重要。学力ってのは単により難しい問題が解ける能力のことをいうのではなく、文字通り学ぶ力のこと。わかりやすくいえば、その人が学ぶときにどれだけ体を動かし、頭を動かしてきたかということ。知識は学力を持ってして身につくもの。
最近「結婚力」とか「肌力」とかなんでも力をつけりゃいいって思わせる造語が増えているにもかかわらず、昔から使われてきたこの学力という言葉は学ぶ力ではなくて、問題を解く力という意味に変わってしまっている。
教育が学ぶ力を掘り起こすものだとすれば、先生業で先生は教え子の学ぶ力を見いだしてやることではあっても、子供に何かを奪われる仕事ではない。知識が奪われることもなく、学力を奪われるもものでもない。
何も奪われるもののない先生業なんだから、自分を教え子が超えるということを喜ばないはずがない。ということだ。
教え育てるのが教育。
先に生まれた、先生。
学ぶ校(場所)だから学校。
教えをうけるのは生の徒。
徒っていう漢字にはものすごくいっぱいイミや使い方があるけれど、からっぽとか役に立たないとかネガティブなイミが多い。徒歩っていう江戸時代の身分もある。
一人前になってない人間(生徒)を、先に生まれて生きてきた先生が教えるのが授業。
業は概念的にはWORK。仕事とか、学生だったらWORKは勉強のこと。
つまりは、勉強を授ける(伝える)場が授業で、そこで身につくのが、学ぶ力、学力。
文字に全ての答えがあります。
学力低下が言われ久しい。学ぶ力が衰えたってことは国のちからもなくなってきてるってことだよね?。
いつもおもしろいコメントをありがとう
ふと言葉を分析してみたけれども、名は体を表すとでもいうように文字もよくその意味が表されているよね
そういう言葉の分析ができるのも、母国語のおもしろさだったり
そういえばゆとり教育の旗揚げとして文科省にいた方が最近退職されたそうですが...