Wikipedia

最近、Googleの閲覧頻度に勝るとも劣らない頻度閲覧するようになったのが、今更ながらWikipedia(日本語版)だ。

Wikipediaの考え方は、自分がもっとも得意な何かほんの一部分の「知」をもちより、それを集めることで、より正確性の高い、より深度の深い知の集積を作ろうというものだ。人間の知を、ネット上の誰でもが書き込みができるという、大数のメリットと世界同時性のメリットを最大限利用して、より正確な記録として残そうとしている。その考え方は素晴らしいと思うし、今のネット社会には大切な考え方の一つだと思う。ネットをよく使う人なら一度は目にしたことがあると思う。

そのWikipediaについて、おもしろい記事があって、それがWikipediaについてだけでなく、人間の知について僕が考えるところと近かったので、紹介したいと思う。

ASCII:「Wikipediaが弱い部分」
http://ascii.jp/elem/000/000/128/128643/

(リンク切れの場合には、こちら

このなかで、筆者が

「自分で文章を書いているつもりが、自分は単なる合成機で「こっちにある知識」と「こっちにある情報」にたまたま脳みその中に残っていたものをブレンドしているだけではないか?
つまり、人間は「情報合成機である」というようなことを常々感じている(以下省略)」

と書いているところにもっとも共感してしまった。本来この筆者が言いたい記事の目的とは違うけれども。

よく考えてみると、Wikipediaは既に世の中に存在することを集めているに過ぎない。現在その言葉があること、その技術やものが存在していること自体は、人間の治が生み出したものではあるかも知れないけれど、全く存在しないものを書いてはいない。
それに、人間は毎日たくさんの新しいものを生み出してはいるけれども、本当に「新たに生み出したもの」ってどれくらいあるんだろうっておもう。先程の記者が言うように何かと何かを合成して新しい形にリフォーム(reform)していることが、人類の発展と錯覚してはいないだろうか。
リフォームすることだって、大変なことだし、Wikipediaの知識に到底達するわけではないけれども、新たなものを生み出してはいないと言うことをWikipediaを使えば使うほど感じてしまって、なんとなく悲しい。

Wikipedia” に対して4件のコメントがあります。

  1. SAQ より:

    う?ん。深いテーマだよねぇ、これ。
    インプットがなきゃなにも生まれないワケだし。例えば音楽。新曲は日々大量生産されているけれど、過去のコードとか音楽体系とか、どこかで聞いた旋律の総動員だったりするし、歌詞なんて究極の集合知なんじゃないかと。
    なんてことをさっき吉牛食いながら思索してました。偶然ながら似たテーマだな?と思わずコメントwww
    出発点は、カバー曲の大ブームが来たら、POPSの進化は止まるのか?って考えはじめて、そもそもPOPSって寄せ集めが聞きやすさになっちゃってるのが現代だという菊地成孔(⇒ブログ)大先生のオコトバを思い出してみたり。ってことは全くの新品なんてこの世にあるんかいなと。
    対象転換するけれども、今まさに、ネットの先っぽで日々生産されて、自分達がわくわくしながら見てるものって、色んな既存パーツの天才的な組み合わせなんじゃないかな?。Web2.0なんて言っても極論すれば古い技術の発掘と組み合わせなんだし。
    そう考えたら、集合知なんてものをそう悲観することもないんじゃないかな?どうでしょ?
    何かいいね?こういうテーマ。
    居酒屋ででもじっくり語り合いたいね?(^^;

  2. yuichiro ikeda より:

    >SAQさん
    そうだね 確かに、集合知。
    いやそれはほんとにすごいと思うよ。あるものとあるものが合わさって別の形に変わったときに全く想像もしなかった、新しいものが生まれるということ、そしてそれをだれもが簡単に使うことができるということ、は今のネットが実現した大きな進歩だよね。
    たださ、インプットがないと生まれないという部分では、なんといえばいいかインプットがなかったら何も生まれないものなのかな?変な言い方だけど、0からは1は生まれないってことだよね。
    でもそうしたら、0いや、1ってどうやって生まれていくものなんだろう。小学生みたな堂々巡りだけど、なんで現代には本当に新しいものって生まれないのかなって思うのは集合知を悲観視してるってことなのかな?

  3. poirot より:

    「リフォーム」だって「付加価値」のひとつの形態であって、
    付加価値を創造することは「人類の発展」のひとつの形態だと思う。
    よって、既存の知識の組み合わせや積み上げ方の工夫だって、
    それら自体も立派な「人類の発展」のひとつの形態ではないだろうか。
    まず、そもそも「人類の発展」の定義は一通りではないでしょう!?
    それから、貴方は「新しいもの」とは何かを定義できるかな!?

  4. yuichiro ikeda より:

    >poirotさん
    返信が遅くなってすみません。コメントありがとうございます。
    確かに「リフォーム」だって「付加価値」のひとつの形態だし、立派な人類の発展だとおもうし、そうだろうことは重々承知しているのですが、おっしゃるとおり僕の定義できない「新しいもの」というのは、まずそもそも付加するものではないと思うんです。
    付加するわけではない新しい価値というのは生まれないのかそういう疑問なんです。
    でも、なんだかいろいろ考えていると付加する形でない新しいものっていうのは、もう存在しないように思えてきた・・・

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