武士道(1)
僕のポリシーの1つに原点に返るというのがある。
何かにぶつかったときに一番はじめはなんだったのか。理解できる範囲で、一番もと、ソース(Sorce)、組織に当たることにしている。
その中で、最近「日本人という存在」に興味を持っている。戦後これだけ急激な成長を遂げ、世界屈指の産業国になりながら、今その先が危ぶまれている。昔の日本人にあって、今の日本人に足りないところはなんだろうというのが疑問の発端だ。
そこで、手始めに読んだのが数学者 藤原正彦「国家の品格」。非常に極論に近いことを立て続けに書いているので鵜呑みにはできないのだが、その中に1つのヒントがあった。新渡戸稲造「武士道」だ。
「武士道」のなかでこう書き始めている。彼はあるときベルギー人との話の中で、「日本には宗教教育がない」というと、「宗教教育なしで、どうやって道徳を教えているのだ」と質問され、即答できなかった。よく考えてみたところ、自分の正邪善悪の観念を形成している様々な要素は「武士道」であることに気づいた、というのだ。
「武士道」は、新渡戸稲造が日本人の精神観念を世界に知ってもらいたいという思いで綴ったもので、1899年にアメリカで出版されたのが始まりだ。もちろん英語だ。これを後に日本語に訳したものを読んでみた。日本人のことを翻訳された本で読むという感覚は新鮮だが、実によく記されている。
とても、1エントリーで書いていけるものではないので、数回に分けていろんな面を取り上げてみたいと思うが、今回は次の言葉を引いてみた。
国民性を構成する心理的要素の合成体が粘着性を有することは、「魚の鰭、鳥の嘴、肉食動物の歯等、その種属の除くべかざる要素」のごとくである。ル・ボン氏は浅薄なる独断と華美なる概括とに満てる氏の近著において曰く、「知識に基づく発見は人類共有の遺産であるが、性格の長所短所は各国民の占有的遺産である。それは堅き巌のごとく、数世紀にわたり日夜水がこれを洗うても、わずかに外側の圭角を除去しうるにすぎない」と。
BUSHIDO, THE SOUL OF JAPAN(1899)
Inazo Nitobe